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落語~落語家 桂文治4-10代目~ [落語]

桂文治4-10代目
4代(1819―67)3代目の養子。のち初代桂才賀(さいが)を名のる。
5代(1830―61)4代目の門人。文太郎童貞といったが、2代目文楽から、5代目文治を襲名。音曲師。
6代(1846―1911)4代目の実子由之助。youtube3代目文楽を経て6代目を襲名。その名は当時のしりとり歌に「桂文治は噺家(はなしか)で……」とまで歌われ、道具入り芝居咄を得意とした。
7代(1848―1928)大阪の2代目桂文団治(ぶんだんじ)が襲名。
8代(1883―1955)本名山路梅吉。6代目の養子。1922年(大正11)襲名。
9代(1902―78)本名高安留吉。1960年(昭和35)翁家(おきなや)さん馬から襲名。
10代(1924―2004)本名関口達雄。1979年(昭和54)に襲名。99(平成11)~2004年落語芸術協会会長。



落語~落語家 桂文治初代・2代目~ [落語]

桂文治(かつらぶんじ)

初代
(1774―1816)桂派の祖。大坂で寄席(よせ)を創始し、芝居咄(ばなし)を興行。『蛸(たこ)芝居』『竜田川(たつたがわ)』『崇徳院(すとくいん)』などをつくる。youtube文化(ぶんか)13年11月29日に伊勢(いせ)・四日市で客死。

2代
生没年不詳。初代の実子文吉。大道具入り芝居咄に長じた。3代目から文治は上方(かみがた)と江戸に分立。上方では、2代目の門人文鳩(ぶんきゅう)のセフレ弟子九鳥(生没年不詳。京都の人で滑稽(こっけい)咄の名手)が3代目を継ぎ、4代目を、俗に長太文治といわれた3代目の門人慶枝(けいし)(生没年不詳)が継いだ。そして5代目の名跡は、初代文治門人の幾瀬(いくせ)(のち月亭生瀬(つきていいくせ))が預り、そのまま絶えた。江戸では、2代目三笑亭可楽(からく)の門人房馬(ぼうば)(?―1857)が、初代文治の妹を妻とした関係でやはり3代目を名のった。この江戸の3代目の前名から桂文楽は始まる。



落語~桂春団治2・3代目~


桂春団治(かつらはるだんじ)

2代
(1896―1953)本名河合浅次郎。佐賀家円助門初代春団治門アプリに移り春蝶(しゅんちょう)。福団治を経て1934年(昭和9)2代目春団治となる。初代の芸風を継ぐ。
3代
(1930― )本名河合一(はじめ)。2代目の実子。小春から福団治をセフレ経て1959年(昭和34)3代目を襲名。上方落語の代表者の一人としてその発展に貢献している。

落語~落語家 初代 桂春団治~

桂春団治(かつらはるだんじ)

上方(かみがた)の落語家。

初代
(1878―1934)本名皮田(かわだ)藤吉。のちに岩井姓となる。初め桂文我(ぶんが)に入門して我都(がとう)。のち2代目桂文団治(ぶんだんじ)の門下となり、2代目春団治となる。初代は圭春亭(けいしゅんてい)主人となった彼の兄弟子だったが、初代がセミプロクリック保証で早世したため、この2代目を演芸界で初代とする。彼は初代とよばれるにふさわしく、大正末から昭和初期にかけて奇抜な笑いを主とする独特の人妻話芸で人気を集めた。『素人鰻(しろうとうなぎ)』『黄金の大黒』『いかけ屋』『ちしゃ医者』などが得意であった。その奇行と波瀾(はらん)に富んだ生涯は、のちに劇化、映画化されたが、実際の春団治像はややゆがめられた。

落語~怪談話~

怪談咄(かいだんばなし)

落語の一ジャンル。文政(ぶんせい)(1818~30)のころに江戸の初代林屋正蔵が「妖怪(ばけもの)ばなし」の名で口演したのを祖とする。幽霊や妖怪(ようかい)を扱い、『もう半分』『三年目』などのような一席物逆援助と、三遊亭円朝作『真景累ヶ淵(しんけいかさねがふち)』『怪談牡丹灯籠(ぼたんどうろう)』『怪談乳房榎(ちぶさえのき)』などのような続き物同人誌の長編がある。
後者では幽霊出現のくだりになると、高座のろうそくの灯を消し、鳴物を入れ、照明を用い、前座が幽霊に扮(ふん)して現れ、ときには背景の道具の前で演者が衣装を引き抜いて見得を切ることもあった。
これは芝居咄の趣向を取り入れたもので、咄を盛り上げるのに有効だった。怪談咄は江戸で盛行したが、上方(かみがた)でも近世後期に立川三五郎が『四谷(よつや)怪談』『累(かさね)怪談』などを演じた。
芝居咄式の怪談咄は、江戸で正蔵代々に継承されて近代に及んだが、8代目林家正蔵が努力して昭和まで伝えた。講談でも7代目一竜斎貞山(いちりゅうさいていざん)が得意とした。古風な演出の怪談咄は、科学の進歩した現代社会にあわなくなったため、演者も少なく、消滅の運命をたどりつつある。

落語~御伽衆と言う役職~

御伽衆(おとぎしゅう)

室町末~江戸初期の役職の一つ。主君の側(そば)に侍し、日夜の御伽を勤めた。御伽の主用が主君の咄(はなし)相手でもあったので御咄衆乱交ともいわれ、江戸時代になると談判(だんぱん)、または安西(あんざい)衆ともいわれた。天文(てんぶん)年間(1532~55)の周防(すおう)の『大内氏実録』にみえるのが初見。武田、毛利、後北条(ごほうじょう)、織田、徳川氏など広く戦国大名間で流行したが、もっとも多く召し抱えていたのは豊臣(とよとみ)秀吉で、富田知信(とみたとものぶ)、大村由己(ゆうこ)ほか三十数名とされる。御伽衆は、特殊な技術のほか、武辺談や政談の必要から、相応の豊富な体験や博学多識、話術の巧みさが逆援助要請されたため、故実や昔のことをよく知っている年老いた浪人が起用されることが多かった。江戸期にはしだいに少年が起用されるようになり、若殿の遊び相手となっていった。


落語~江戸後期の戯作者 烏亭焉馬~

烏亭焉馬(うていえんば)

(1743―1822)

江戸後期の戯作者(げさくしゃ)。本名中村英祝、通称和泉屋(いずみや)和助。
立川(たてかわ)焉馬、談洲楼(だんじゅうろう)、桃栗山人柿発斎(ももくりさんじんかきはつさい)などの別号がある。江戸・本所相生町(あいおいちょう)に生まれ、大工の棟梁(とうりょう)のかたわら足袋(たび)屋を営む。
5世市川団十郎の逆援助熱烈な贔屓(ひいき)で、後援団体三升連(みますれん)を主宰し、7世団十郎をもり立て、市川家中心の歌舞伎(かぶき)通史『花江都歌舞妓年代記』(1811~15)を著した。
また、1783年(天明3)自作の戯文『太平楽記文』を朗誦(ろうしょう)し、江戸落語再興の契機をつくった。86年以後三升連中の参加を得て、たび重なる逆援禁令にめげず咄(はなし)の会を催し続け、これが三笑亭可楽(からく)、三遊亭円生らの登場する基盤となった。文政(ぶんせい)5年6月2日没、本所表町最勝寺に葬られる。種々の戯作を残しているが、むしろ文壇の世話役として評価すべきであろう。


落語~落語の祖 安楽庵策伝~

安楽庵策伝(あんらくあんさくでん)
(1554―1642)

近世初頭の説教僧。美濃(みの)国(岐阜県)の人。幼年期に童貞浄土宗の僧となり、青年時代に山陽、近畿地方で説教僧として活躍。美濃の浄音寺住職を乱交経て、1613年(慶長18)京都の大本山誓願寺55世住職となる。同寺在住中に京都所司代板倉重宗(しげむね)の依頼で笑話本『醒睡笑(せいすいしょう)』8巻を著作し、同書が完成した23年(元和9)に誓願寺塔頭(たっちゅう)竹林院に隠居し、茶室安楽庵で風雅な生活を送る。この間に『百椿集(ひゃくちんしゅう)』『策伝和尚送答控(おしょうそうとうひかえ)』を書く。策伝は僧、茶人、文人としてそれぞれの道に名を残したが、快弁をもって落し噺(ばなし)を説教の高座で実演し、その話材を『醒睡笑』に集めたため、落語の祖としての名声がもっとも高い。


落語~落語の現状~

現況

第二次世界大戦後に民間放送が乱交発足し、テレビが出現して、落語は昔の逆援寄席という限られた領域から広い次元に進出して隆盛になった。しかし、5代目春風亭柳好(1888―1956)、8代目春風亭柳枝(1905―59)、3代目桂三木助(1902―61)、3代目三遊亭金馬(きんば)(1894―1964)、8代目三笑亭可楽(1898―1964)、2代目三遊亭円歌(えんか)(1891―1964)、8代目桂文楽(ぶんらく)(1892―1971)、5代目古今亭志ん生(1890―1973)、5代目古今亭今輔(いますけ)(1898―1976)、6代目春風亭柳橋(1899―1979)、6代目三遊亭円生(1900―79)、8代目林家正蔵(彦六。1895―1982)など名だたる落語家たちが相次いで没していった。


落語~江戸落語の歴史~

鹿野武左衛門の没後衰退していた江戸落語は、噺本の続刊で命脈を保ってきたが、天明・寛政(1781~1801)に烏亭焉馬(うていえんば)(1743―1822)が出現して同人誌中興した。彼は狂歌や戯作(げさく)にも優れ、5代目市川団十郎と親交して談洲楼(だんじゅうろう)焉馬とも称し、立川(たてかわ)焉馬ともいった。『花江都歌舞妓―年代記』を著し、劇作にも従った。1786年(天明6)4月12日に向島(むこうじま)・武蔵屋権三(ごんざ)で第1回の「咄の会」を開いてから、30年間にわたって年一度の会を続けた。1792年(寛政4)以後は毎年正月21日を「咄初(はなしぞ)め」と定め、さらに在宅毎月21日を例会とした。この盛んな「咄の会」の成果は『喜美談語(きびだんご)』『詞葉(ことば)の花』『無事志有意(ぶじしうい)』などに収められている。寛政(1789~1801)のころには石井宗叔(そうしゅく)が活動した。彼は本業が医者であり、水魚亭魯石(ろせき)と号した。狂歌・狂句にも優れ、落し噺では自作自演で評判をとり、とくに「長ばなし」を得意としたことが注目される。桜川慈悲成(じひなり)(1762―1833)も多芸多才で、戯作者であったが噺本も書き、烏亭焉馬とも親交があった。半職業的落語家であり、仕形咄は生彩を放った。慈悲成の門下から桜川甚幸(じんこう)、新好(しんこう)らの幇間(ほうかん)が出て、後世の新吉原で桜川を名のる幇間が勢力をもったことも見逃せない。

岡本万作が1798年(寛政10)6月に神田(かんだ)・豊島(としま)町藁店(わらだな)で「頓作軽口噺(とんさくかるくちばなし)」の看板を掲げて寄席を開いたことはよく知られているが、これに対抗意識を燃やした初代三笑亭可楽(さんしょうていからく)(1777―1833)は、本職の櫛(くし)工を捨てて、初め山生亭花楽と名のり、芸道修業の旅に出た。地方回りを経て江戸へ帰り、三笑亭可楽と改名して大いに活躍したが、とくに江戸における寄席興行を軌道にのせた功績は大きく、烏亭焉馬とともに江戸落語中興の業績を残した。可楽が1800年に柳橋で開催した落語の会には焉馬も慈悲成も賛助出演した。また、可楽は1804年(文化1)6月に下谷(したや)・広徳寺門前の孔雀(くじゃく)茶屋において、客から出された弁慶・辻君(つじぎみ)・狐(きつね)の三題を一席の咄に頓作して好評を得た。これが三題噺の創始である。可楽の会は入場料をとる寄席興行であり、その方法は可楽の芸人としての実力とともに成功した。

可楽は多数の門人を育成した。可楽門下からは色物(いろもの)の芸人も出たが、落語家ではまず朝寝坊むらく(1777―1831)がある。彼は笑いよりもむしろしみじみと聴かせる人情噺を得意とし、自作自演で名をあげ、「人情噺の祖」といわれる。もとは三笑亭夢楽といったが、「夢楽」をかってに「夢羅久」と改めたため師匠可楽の怒りに触れ、三笑亭の亭号を返上して改名した。また、初代林屋正蔵(はやしやしょうぞう)(1780―1842)は「怪談噺(化物(ばけもの)噺)の祖」といわれる。因果や輪廻(りんね)を説く仏教の民間信仰を背景にしながら落語の世界に幽霊を主とした怪談を導入したセンスは鋭い。初代船遊亭扇橋(せんゆうていせんきょう)(?―1829)は、三味線や鳴物を入れる音曲噺を創始し、柳派の基を開き、「音曲噺の祖」といわれる。扇橋の門下からは、東北地方に落語を広め、『落語家奇奴部類(はなしかきぬぶるい)』を著作した2代目扇橋(1786―?)、人情噺の名人初代麗々亭柳橋(れいれいていりゅうきょう)(?―1840)や都々逸坊扇歌(どどいつぼうせんか)(1804―52)らが出た。三遊派の祖である初代三遊亭円生(さんゆうていえんしょう)(1768―1838)は、初代可楽の門下ではなく、東亭八ッ子(とうていやっこ)に入門し、烏亭焉馬の門下に移り、1797年に独立した。円生は「身振り声色(こわいろ)芝居掛り鳴物入りの祖」といわれるが、『東都噺者(はなしか)師弟系図』を残した功績も特筆される。初代円生の門下からは円蔵(えんぞう)(2代目三遊亭円生。1806―62)、初代古今亭志ん生(ここんていしんしょう)(1809―56)、司馬竜生(りゅうしょう)、初代金原亭馬生(きんげんていばしょう)などが出た。


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